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『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』の終盤で、登場人物の1人が宇宙ゴミの散らばる広大な景色をじっと見つめるシーンがある(それが誰か、そしてその人物がどの惑星にいるかは言わないでおこう。口にすればファンをひどく怒らせるだろうし、ライカン将軍も言うように「死の刻印を背負ったまま生きて行くのは容易ではない」からだ)。

旧三部作からそのままもってきたかのようなショットで、監督ライアン・ジョンソンによる衝撃的な最新作のなかで、オリジナルのシリーズの空気感に忠実な数少ないシーンのひとつだ。ジョンソンが脚本も手がけたこの作品は、シリーズのなかでも非常に大胆で、わたしたちが愛するはるか彼方の銀河系にプロトン魚雷を打ち込むような作品に仕上がっている。

古き忠誠はぼろぼろになり、一族の絆はライトセーバーで真っ二つに切り裂かれ、ルーク・スカイウォーカーのように水分農場で育った素朴な少年でさえ、深刻な実存の危機に直面することになる。子どものころに遊んだスター・ウォーズのおもちゃをまとめて裏庭で燃やし、その煙を吸ってハイになるにも等しいような152分間だ。

新たなるスリルを生み出す

『最後のジェダイ』は、2015年に公開されたJ.J.エイブラムス監督の『フォースの覚醒』の直後から始まる。旧三部作の第1章(『エピソード4/新たなる希望』)の焼き直しという感もあった前作では、孤児で砂漠のゴミ漁りをするレイ(デイジー・リドリー)と元ストームトルーパーのフィン(ジョン・ボイエガ)、彼らと敵対するミレニアム・ファルコン級の悪役カイロ・レン(ハン・ソロとレイアの息子で、マッチョだが思い悩むタイプで傷ついた男という設定だ。アダム・ドライヴァーが演じる)の物語が描かれた。

シリーズの過去の作品では、作品と作品の間に一定の時間が流れたこともあった。だが、『最後のジェダイ』では空白は挟まず、レイア将軍率いるレジスタンスの戦士たちとファースト・オーダー(冷笑を浮かべた顔でファンを苛立たせるハックス将軍が指揮を執る。将軍を演じるのはドーナル・グリーソンだ)との小競り合いに突入する。

ファンは、スター・ウォーズ“らしい”戦いがどのようなものか熟知している。急上昇するTIEファイター、唸りをあげるレーザービーム、これでもかというほどの空中でのアクロバット。作品はもちろんこうしたものを見せてくれるが、カイロ・レンとレイアの言葉なき対決や、アクバー提督を慌てさせるような大胆不敵で緊迫した船内ミッションもある。『最後のジェダイ』は旧三部作をまたもや再起動させるのではなく、新たなスリルを生み出すことを目指しているのだ。

戦闘シーンの後に、舞台は草木の生い茂ったジェダイ・テンプルへとワープする。『フォースの覚醒』の最後で、レイが古いライトセーバーを手にルーク(マーク・ハミル)に近づいて行き、年老いた世捨て人が彼女を無言で迎えた場所だ。

ルークは甥の教育に失敗し(その結果として現在のカイロ・レンがある)、このために基本的にはフォースから離れ、理想主義で高慢でさえあったかつての自分に背を向けて生きていることが明らかになる。彼はここで惑星の住人の手を借りながらひとりで暮らし、アリクイのような何かから取れる緑のミルクを飲んで生きている(星にはほかにも、ファービーとキャラクターもののスリッパを掛け合わせたような、ポーグという鳥みたいな生き物も住んでいる)。

レジスタンスを率いるレイアの存在感

旧三部作では、ハミルのあどけない雰囲気、そしてときにはバカみたいにすら見える少年っぽさが生かされていた。だが、今作品では無精髭を伸ばした野卑な男で(レッド・ツェッペリンの名作『レッド・ツェッペリン IV』のインナースリーブから出てきたかのようだ)、大きな犠牲をもたらした長年にわたる家族の争いに疲れ果てている。

しかしここからは、年をとったルークへの皮肉が散りばめられる。彼は悲しき賢人ではなく、「もうシスなんてうんざりなんだよ」といった空気を漂わせるジジイ、そしてときにはペテン師として描かれる(ルークは最初の台詞を口にする前から観客に大きな笑いを引き起こす)。これまでのスター・ウォーズでは特におかしい作品はなかったが、『最後のジェダイ』には驚くほど明るい部分があり、そのひとつがルークとレイが世代の違いからくる言い争いをするシーンだ。

冷めたジェダイと、その招かれざる客とが互いにやりづらく喧嘩腰になることもあるトレーニングを開始したころ、徐々に数が減りつつあるレジスタンスたちは、部隊を守ろうとするレイアの命令の下に集結する。しかし、レイアの努力はエースパイロットのポー・ダメロン(オスカー・アイザック)によって危うくなる。

レイアを演じるキャリー・フィッシャーは、『最後のジェダイ』の撮影を終えた直後に亡くなったが、彼女が『フォースの覚醒』より今作でのほうが随分とリラックスしているのを目にすると、悲しい気持ちになる。レジスタンスを率いるというレイアの新しいキャラクターに慣れてきていたのだろう。これまでのシリーズ作品と同じで、『最後のジェダイ』でもレイアには心に残る台詞がいくつか用意されているが、フィッシャーの顔が無言のままスクリーンに大写しになるとき、彼女の威厳ある暖かさが現れる瞬間こそが最高のシーンだ。

フォースがもつ「結びつける力」

そういえば、『最後のジェダイ』には登場人物がスクリーンを通じて見つめ合うシーンが多くある。そこでは互いの精神の間で言葉のない会話が繰り広げられ、シリーズのどの作品よりもフォースの形而上学的な力が前面に押し出される(しかし有難いことに、あのおぞましいミディクロリアンへの言及は一切ない)。

最高指導者スノークの王座の間のグロテスクなインテリアから、興味深いバックグラウンドをもつ生き物たちや思わず身を乗り出しそうになる空中戦のシーンまで、作品は驚きの連続だが、最も印象的なのはフォースの「結びつける力」という側面に焦点を当てたことだ。

ジョンソンはフォースをただの陳腐な宗教ではなく、コミュニケーションと相互理解の超越的なかたちとして描いている。登場人物は、ほぼ全員が自らの過去の一部を隠すか消し去ろうとしているが、監督もスター・ウォーズという作品自体を巡って(丁寧にではあるが)同じことをしようとしているという感じを受けるだろう。『最後のジェダイ』では、スター・ウォーズでこれまで続いてきた表面上は神秘的な戯言は姿を消し、「フォースを信じること」が理性的に解釈されている。

それでも、ジョンソンのこうした努力にも関わらず、大げさな内容の会話やローテク兵器対巨大な軍事力といったシリーズのお約束も盛り込まれている。そういう意味では、この作品もやはりスター・ウォーズだ。存在が無意味なうえに文字通り漫画的過ぎるマズ・カナタを含め、『最後のジェダイ』のダメな部分の多くは『フォースの覚醒』の負の遺産だ。

想像よりはるかに深い叡智と真実に満ちている

前作には、モス・アイズリーの酒場にたむろしていた雑多な異星人たちよりさらに多くのキャラクターが登場し、ジョンソンも放っておくことのできない人間関係が構築されてしまった。2時間半という上映時間に関しては、「もうスター・ウォーズでお腹いっぱい」と感じる程度には長く、(どちらも120分前後と比較的)短い『エピソード4/新たなる希望』や『エピソード5/帝国の逆襲』を覚えているファンにとっては、炭素冷凍されたハン・ソロのように身動きもせずに座席でじっとしているのは難しいかもしれない…。

しかし、数時間後に意識を取り戻すと、観客は『最後のジェダイ』をまた観に行くつもりになっている。それがたとえ、いま観たばかりの作品世界との精神的なつながりを深めるためだけだとしてもだ。

作中で、ある登場人物が「お前が思っているようにはいかないぞ」と警告を発するシーンがあるが、これはオープニングロールに含まれていてもいい一行で、この映画の予期できない面白さを要約している。ファンは大好きなスター・ウォーズに引き寄せられて映画館に足を運び、想像していたよりはるかに深い叡智と真実に満ちた物語に出会う。『最後のジェダイ』は罠であり、ファンをほぼ完璧に虜にする作品なのだ。


引用元:WIRED (https://wired.jp/2017/12/15/starwars-the-last-jedi-review/)